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ミシェル・ビュトール「ディアベリ変奏曲との対話」(5)


ブレンデルが、「音楽のなかの言葉」という著書の中で一つの論文の半分を使って、この曲について書いています(この本は1992年の出版で、只今、絶版のようです。図書館か古本屋で捜しかなさそうです。ディアベリ関連の本はどうしてこう次々と廃刊されてしまうのですかね^^;;;)。
「クラシック音楽はつねにシリアスであるべきか」というタイトルの後半分20ページ程がディアベリ変奏曲の分析です。この「シリアスであるべきか?」という問いはビュトールの分析ではあまり触れていない点ですが、重要です。というわけで、興味深い内容なので、ご紹介しましょう。

ブレンデルの主張の眼目はディアベリ変奏曲はディアベリの作曲した陳腐な主題に対する徹底的なパロディだという点です。彼のディアベリ論の冒頭を引用してみましょう。

深刻さ、叙情、神秘性と抑圧性、内向性とはやゃかな外向性とさまざまな感情が幅広く顕れているにもかかわらず、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」は、最も広い意味でのユーモラスな作品となっている。ベートーヴェンの最初の伝記を書いたアントン・シントラーは、次のように述べている----この作品を書くにあたって「ベートーヴェンは珍しく喜び」、「バラ色の気分で」作曲し、「まれにみるユーモアに溢れ返った」----これらの部分だけは、私は彼の言葉を信じられる。これは、晩年のベートーヴェンが完全なる憂鬱に閉ざされていたという通説を覆すものである。ベートーヴェンの作品に関する最も鋭い初期の批評家の一人であるヴィルヘルム・フォン・レンツの言葉を借りれば、ここでのベートーヴェンは「ユーモアに関する奥義を究めた高僧として異彩を放って」いる。レンツは変奏曲を「主題に対する風刺」と呼んでいる。
主題そのもの----ディアベリが50人の作曲家に送って、それぞれの変奏曲を一曲ずつ書くように依頼したもの----も、コミカルである。前半と後半は頑固に似かよっているし、想定したものと現実とはあまりにかけ離れているようだ。これは厳密にいえば、いかなるたぐいのワルツでもない。強弱記号と「ヴィヴァーチェ」というテンポの指示を無視すれば、流行遅れのメヌエットに似たところがある。しかしその指示を考慮すれば、作新は当世風のバガテルを懸命になぞっているように思われる。実際、まったくディアベリらしからぬ、そのクレッシェンドやスフォルツアンドは、すべてベートーヴェン自身の手で加えられたものではないかと、コンラート・ヴォルツは疑問視している。

後半の部分の主題の分析が面白いですね。これは演奏によって強調している演奏とそうでない演奏があるのですが、後でブレンデル、ご本人の演奏を聴いてみましょう。
さて、この、ある意味で奇妙なテーマをどう変容させたかのブレンデルの記述が続きます。

ベートーヴェンの以前の変奏曲とに比べて、「ディアベリ変奏曲」は大きく正統を踏みはずしている。古典における変奏では、暗黙の原則として第一変奏は主題の性格に近いものであることが条件となっていた。ベートーヴェンはその期待を裏切り、非現実的な「ワルツ」はたちまち行進曲に変身する(「ディアベリ変奏曲」に関する優れた論文のなかで、ウィリアム・キンダーマンは、これはあとからの発想だったと指摘している。変奏曲の大半は1819年に完成されたが、行進曲はベートーヴェン最後の三つのソナタと「ミサ・ソレムニス」を書き上げたあと、1922年に書き足された十曲の変奏のなかに入っていた)。それに続く変奏のなかですくなくとも八曲は声高に、あるいは声を殺して笑っている。そのほかにも、グロテスクな冗談が許されるならディアーブル(悪魔的)な様相をおびている曲がある。
しかし喜劇の感覚を除くと、主題のなかにはこの変奏曲全体を貫く要素はごく僅かしかない。主題は自分勝手な子供たちを支配しきれない。逆に変奏のほうが主題からもらい受けるものを決めてしまう。ディアベリの主題は認知され、飾られ、賛美される代わりに、矯正され、パロディ化され、からかわれ、否認され、姿を変えられ、嘆き悲しまれ、踏みにじられ、最後には高みへと送られる。

引用は翻訳本によりますが、直訳体でちょっと分かりにくいですね。要するに、ベートーヴェンの作曲した変奏はディアベリの書いた主題に対する徹底的なパロディだと言っているのです。従って、「古典派の普通の変奏曲と異なり、主題を上品になぞるのでなく、主題の変な特徴を、とことん、からかうことによって作成されているよ」とブレンデルは主張します。
さて、ここから先はブレンデルの本文の順番を無視して、論を進めやすい順番に引用をくり返します。この方が彼の主張は分かりやすくなると思いますので、ご容赦ください。
それでは、まず、ブレンデルはこの曲のテーマのどの部分が「動機となる音楽的要素」と見ていたかを楽譜に示してみましょう。



以下は図示した部分の解説です。

①アウフタクトの装飾音、倚音 、あるいはアボジャトゥーラ(前打音)
②4度と5度の音程
③同音あるいは和音、およびペダル音(普通は属音のト音)の反復
④分散和音(1-4小節、5-8小節などの右手と左手)
⑤舞踏のリズム(d|dxd|d dは四分音符、xは四分休符) および、その変形
⑥反復進行形
⑦前半と後半のそれぞれ最後の四小節に現れる旋律曲線

さらに

⑧二つの「構成要素」もみすごしてはならない。前半と後半のいずれでも連続した縮節形(フォアショートニング)をとる。そして「旋律の方向」は前半では下降する音程あるいは運動をとり、後半の最初では上行形をとる(ディアベリの主題では、前半は下降する4度と5度で始まり、後半は上行する5度で始まる。

以上の主題の特徴(動機となる音楽的要素)はビュトールも指摘いるものですね。特に⑧の変奏の全体的構造に関する点は以前の書き込みでビュトールの本文を引用してご紹介したので、ほぼ同じであることがお分かりかと思います。この部分です。
ブレンデルのディアベリの主題に対する指摘でもう一つ興味深いのはクレシェンドに関するものです。引用しましょう。第3章の初めからです。

コンラート・ヴォルツが「ディアベリらしからぬ」と指摘したクレッシェンドが、ディアベリの主題のなかでベートーヴェンが唯一かえりみなかった要素として残ったというのは、興味深い(これはベートーヴェンが最初に挿入したものではないという証拠でもある)。このクレシェンドは、厳密に音楽的といえる価値を持てるほど、構成的な力は持っていなかったのだ。しかしベートーヴェンはその心理的な手がかりは採り入れている----自分の作品構築をグロテスクに進行させるための許可証である。

折角ですから、以上をブレンデルの演奏で聴いてみましょう。このコンテンツは、何故か、フレーム埋め込みのリンクを拒否しているので、下の画面をクリックして下さい。ブレンデルの演奏会のYouTube表示に辿り着けます。



いかがですか。結構速いテンボですが、ちゃんとクレシェンドしているのがよく分かる演奏だったと思います。
このクレシェンドは例の評判の悪いロザリアのテーマと連動してます。本当に怪しいクレシェンドですね。

ブレンデルのテーマの分析は以上で、次に、全体の構造の分析に入ります。
最初は直前に引用したクローズの続きです。直前の引用は分節の中央辺りで切っています。その続きです。従って、本来は連続して読まれるべきものです。

まったく相容れない要素を滑稽に、強烈に、奇妙に並置させることがグロテスクの特徴であるとするなら、「ディアベリ変奏曲」は、きわめてグロテスクな作品といえよう。第十三変奏以降は、鋭く対比なすもの同士がほとんど切れ目無しに連続して現れる。最も崇高な厳粛さに満ちた第十四、第二十、第二十四変奏に続いてすぐに軽い喜劇や茶番が現れる。この事実以上に大きな喜劇の精神を表すものはあるまい。一方、第二十八変奏の狂乱に続いて憂鬱な短調の領域が作品を唐突に支配する様子は、アラン・レネの映画「去年、マリエンバートで」の忘れがたい映画を思い出させる。寝室を映し出す光が次第に白さを増していき、ある瞬間にその白さがほとんど黒に近い庭の風景にとって代わるのだ。

まあ、この辺りはビュトールも、違う表現で、同じ指摘をしているわけですが、文学者とピアニストではこうも表現が変わるものなのですかね。何か逆のような気もするが(^^;;;。面白いですね。引用を続けます。段落が変わります。

変奏の「内部」に見い出されるグロテスクな驚きの例は、挙げられないほどある。三つだけ指摘しておこう。第十三変奏では短い音が飛翔したあと、突然に静寂が訪れる。第十五変奏は、20小節目で低音へと音が跳躍し、愛すべき論理や快い音を期待するものを狼狽させる。しかし私の耳には、モシュレス以来試みられた「修正」よりも、このほうがずっと理にかなって聞こえる。第二十一変奏は、前半と後半の統一が破られ、二つの異なる拍子、性格に分裂させられている。

ブレンデルはここで章を変えて続けます。ディアベリの主題のクレシェンドの指摘で始まり、アラン・レネを通って、第二十一変奏に行ったのですが、章を変えて、第4章初め。第二十変奏にもどります。

境を踏みはずしたもう一つの例が、多くの議論を読んだ第二十変奏である。9-12小節の謎のような和音については、「いとも簡単に説明がつく」ハンス・フォン・ビューローは信じていた。 ビューローのものを含めていかなる解釈も、ベートーヴェン研究家たちがベートーヴェンの言葉に論理性を求めたかった事実以外、私にはほとんど何も解き明かしてくれない(このパッセージに何らか論理的な糸口があるとすれば、動機の構成に見出されるだろう。ユルゲン・ウーデは、「水晶体のなかに結晶した凍れる動機」と表現している。この神秘的なパッセージをなぜ永遠にそのまま神秘として捉えてはいかないのか、私にはわからない。(中略)
交互に出てくる二十組余りのコントラストのなかでも、第二十と第二十一の変奏のコントラストは最も強烈である

折角ですから、第二十変奏の楽譜をお見せし、その中でブレンデルが指摘している4小節を示してみましょう。赤で囲んだ部分です。楽譜をクリックするとブレンデルの演奏で音が聴けます(この演奏はテーマのところでリンクした動画とは別のものです)。



ところで、赤で囲った部分は、このタイトルの記事の第三回目バスツアーの第20変奏の中で、作曲家野平一郎さんの分析で引用された楽譜4小節と一致します。同じ部分を演奏家と作曲家の分析を比較してチェックすることが出来ます。よろしければ、このリンク先をご覧ください。

さて、ここから、この曲の作曲経緯を前提にしたブレンデルの全体構成の解釈を引用するのですが、その前に「動機となる音楽的要素」の⑧で引用した部分に続く文を引用します。
個別の変奏曲でこのルールがどう処理されているかを見て、全体構成を暗示しています。

ベートーヴェンと動機となる要素を気の向くままに使っているが、いま述べた二つの構成的特徴については、全体にわたって尊重している---ただし四つの変奏では例外的に、このような動機や旋律の方向が無視されている。第十二(ここでは縮節形もほとんど目立たない)、第二十二、第二十八、第二十九変奏である。第十八変奏では下行形は1小節と3小節、5小節と7小節の関係のなかで、上行形は17小節と19小節、21小節と23小節の関係のなかで保たれている。フゲッタとフーガでは、(主要)主題が四度と五度で交互に現れる。

これが彼の全体構成の分析の伏線となります。 ディアベリ変奏曲は、1822年7月に、曲の順番を固定された形で全33曲中23曲が作曲され、コピーが出版社に渡されています。
しかし、1823年4月30日に10曲追加され、最終の33曲の形に変更されています。この時、以前の23曲の順番はそのままで、間に追加した10曲を挿入するという形で、完成されました。追加された変奏曲は次の通りです。 第1(開始の行進曲)、第2、第15、第23(クレマーの指の練習曲のパロディ)、第24番(叙情的なフゲッタ)、第25、第26、第28、第29(最後のフーガとメヌエットに向かう前の遅いテンボの3曲の変奏曲の第1曲目)、第31(最後のフーガとメヌエットに向かう前の遅いテンボの3曲の変奏曲の第3曲目)、第33(終曲のメヌエット)。

1923年に書かれた十曲の変奏は、その4年前に書かれた四曲とどのように組み合わされたのだろうか。何がつけ加わったのだろうか。第一、第二変奏は「上行するグループ」にいそう大きな基礎を与えた。ウーデの説に従えば、このグループは最初の十曲の変奏のなかで、次第に速度と密度を増していく。ここにはほんとどブラームスの「間奏曲」といってもいい第八変奏が含まれている。挿入された第十五変奏と第二十五変奏は、私たちにもとの主題を「パロディ」(キンダーマン)として思い起こさせる。第二十三~二十六変奏は、ウーデがスケルツォ・グループと呼んだもの(第二十一~二十八変奏)を拡大し、崇高な感じの「トリオ」(ウーデ)としてフゲッタ(第二十四変奏)も導入し、コントラストをつけている。このグループの終わりで第二十八変奏が最後の活気づいたクライマックスを作った後、私たちは外向性から内なる闇へと投げ込まれる。1819年に書かれたときには、ハ短調の変奏は一つだけ(第三十変奏であったが、ここでは第二十九変奏と第三十一変奏か加わって、より大きなハ短調の世界が築かれている。これらの作品では、そこに広がる荒涼とした哀しみにふさわしく、構成も主題からはるかに当座かっている。しかしこれらの悲歌は同時に、もっと大規模な要請をも満たしている。トヴェイは変奏曲についてこう指摘している。「変奏曲には巨大な運動性があり、軸を中心とした回転や、起動に従った運動を引き王越す。変奏の技法で最も困難なのは、この運動を止めることである」。ディアベリ変奏曲ではゆっくりした短調の変奏がブレーキとしての訳張りを果たしている。それに対して活気を呼び起こすフーガが、フィナーレとしてではなく(変ホ長調をとる)、本質的な体験、浄化のための試練として、「ワルツ」を変容させ、「蘇らせる」。この表現はオルフェウス的な秘術やフリーメイソンの入会儀式めいて聞こえるだろうか。私はむしろハインリヒ・フォン・クライストの素晴らしいエッセイ「人形芝居について」に、指針を求めたい。「認識が無限なるものを通り過ぎると、優美なるものが再び姿を現す」。ベートーヴェンはこの言葉を知っていたのだろうか。

ブレンデルは「この変奏曲の中心は摩訶不思議の第20変奏であり、その後の転回は1823年の最終稿で大きく書き換えられ今の形に落ち着いた」と主張しているわけですね。そして結果として、「この曲はディアベリの主題のパロディとしての前半部分(ワルツ、行進曲)とそれを超えて新しい世界を切り開いた後半部分(スケルツォ、アダージョ、フーガ、最後は回帰のメニエット)に分かれる」というわけです。

ブレンデルの全体構成の分析はビュトールのそれとそう大きな差のあるものではありません。違いは中心をどこに置くかという点だけで、前半と後半の二翼で全曲を見る、前半はワルツ中心、後半はフーガ、スケルツォ中心、という見方は共通です。
ブレンデルの問題点は、これだけ見事な分析をしているのに、彼の演奏は教科書的すぎて面白くないことなのですよね。パロディ、グロテスク、神秘、悲歌、浄化、優美が共存するディアベリの世界が現れてこないのですよね。その意味ではアシェナエフなどの方がはるかに上手くやっていると思います。

(Review)   2020/10/10

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Delta Wave


「Delta Waveって何 ?」という方が多いでしょう。「△の波とは何じゃ」となります。しかし、この場合、Deltaは数学用語で、差分という意味のようです。Waveは音の波のことですから、Delta Waveは音の波の差分。
つまり、Delta Wave は二つのWaveファイルを比較して、その差を視覚化して、見せてくれるプログラムのことです。

今までも、CDのリッピングなどで、二つのwavファイルを、バイナリ比較ソフトを使い、比較するということは行われてきました。しかし、それらのバイナリファイル比較との違いは、Delta Wave はオーディオ目的で使われるということです。
オーディオ目的の場合は、リッピングしたwaveファイルでなく、デジタル録音したwaveファイルを使うことになります。従って、

といった要件が発生します。

この種のオーディオ目的のwave比較プログラムは、他にも、Audio DiffMakerdiffrogramといったプログラムが存在しています。しかし、これらのプログラムは比較するための手続きが完全に自動化されておらず、簡単に使うことが出来ないようです。
Delta Wave は前述の課題を巧妙な方法で解決し、自動的に処理していますので、とても使いやすいです。
このソフトは比較する二つのwaveファイルの開始点や音量の差を自動的に検出します。従って、多少、解析に時間がかかりますが、慣れれば、ほとんど何も調整しなくても、適切な比較が出来ます。
結果、録音されたwaveファイルを用意すれば、サルでも(^^;;;、オーディオ目的のwaveファイル比較を行うことが出来ます。

僕は Delta Wave の情報をSMPDの作者のパパリウスさんに教えてもらいました。このスレッドの最初の書き込みです。
パパリウスさんは、SMPDの開発でソフトが高音質であることを維持するための手段として、Delta Wave を使っているようです。

音に関する人の耳による判断は主観的であり、無条件に信用することは困難です。オーディオ雑誌の製品紹介の記事は、信用しないで読むというのがオーディオファイルの正しい作法です。
このため、オーディオ製品の開発では複数のリスナーがその製品の音を聞いて、判断の客観性を確保するという方法がとられているようです。また、測定機を使い、数値による判定も行われています。Delta Wave はこの測定機として使えるソフトです。
録音したオリジナルのwaveファイルを、チェックしたいデバイスを使って再生し、デジタル録音する。録音したファイルとオリジナルのファイルを Delta Wave を使って解析する。という方法をとることにより、音の判断の客観的指標として使えるということです。
パパリウスさんが実際にSMPDの開発で、どのようにDelta Wave を使っているかについては、リンク先に投稿されています。興味のある方はご覧いただければと思います。

このプログラムは、他にも、様々な形での利用方法が可能なソフトです。
パパリウスさんの書き込みを読み、「これは面白そうだなぁ」と考え、早速試してみました。よく出来ていますね。素晴らしい。
というわけで、上記スレッドの内容と一部重複しますが、このプログラムの使い方と僕の環境での試用結果をご紹介したいと思います。


Delta Wave はPaul K.さんによって開発されたプログラムです。このソフトの特徴の一つはデジタルノイズの除去に関して、最新の宇宙写真の解析に使われている技術が応用されている点です。

Paul K.さんはオーディオと天文学が趣味だそうです。このプログラムは彼が天文学の分野で、世界の天文台が公開している宇宙写真を解析したノウハウを応用して開発しているようです。
最新の天文学は、世界各国の天文台の天体望遠鏡で撮った宇宙写真(当然デジタルです)を、コンピュータを使って如何に解析するかが勝負の分かれ目となっています。ノイズだらけのデジタルデータから、どれだけノイズを取り除き、綺麗な画像を取り出すことが出来るかという技術です。Paul K.さんによれば、これはデジタル化されたオーディオ録音データ(waveファイル)から、ノイズを除去し、実際に聞こえている音を抽出することと同じことなるそうです。「なるほどなぁ」と思いました。

作者の作成したDelta Wave サイトはここです。また作者がAudio Science Review のForumに作成したスレッドはここにあります。

上記スレッドの作者の開始のメッセージにこのソフトの特徴が分かりやすく紹介されていますので、グーグル翻訳してみましょう。

Windows 64ビットで実行され、.NET 4.6が必要です。
CPUが高速であるほど、より多くのコアとより多くのメモリであるほど、より良い結果を生みます。
異なる電源ケーブル、USBケーブル、DAC、プリアンプ、DDC、ADC、デジタルフィルター、電源など、オーディオパスの異なるものでキャプチャされた2つのオーディオファイルの違いを分析するための手段として使えます。
いくつかの点で似ていますが、多分、Audio DiffMakerよりも優れています。 このソフトは完全に私自身が設計し、実装しました。DiffMakerを上手く動作させることができなかったので、自作しましした。
最後に、このソフトウェアは完全に無料ですが、現在のベータ版は60日で有効期限が切れます。 その時までに、サイトに更新されたバージョンを投稿する予定です。

ほとんど、グーグル訳そのままです。いいまわしと語尾、明らかな単語の意味のとり違えだけ修正しました。最近の翻訳ソフトは本当によくできていますね。
どうせだから、その先もグーグル翻訳してみましょう。

DSD、FLAC、およびWAVファイル形式を読み取り、差分ファイルをWAVとして書き込みます。
WASAPIを介して元のファイルと差分ファイルを再生します(ASIOでも動作)。
すべての計算は64ビット浮動小数点形式で実行されます。
位相をサブサンプルの精度に一致させ、クロックのドリフトを取り除き、レベルを一致させます(非線形レベルの一致もサポートされていますが、実験的なものと見なしてください)。
2つのファイルが同じレートでサンプリングされない場合、同じ頻度でリサンプリングします。
デルタ波形、スペクトル、スペクトログラム、位相差、およびケプストラムプロットをズーム機能で生成します。
2つのファイルがビットパーフェクトにどれだけ近いかなど、比較の結果を文書化した完全なHTMLレポートを生成します。
ファイルのローパスおよびハイパスフィルタリング、および特定の周波数を除去するノッチフィルターをサポート。

これはほぼ完璧でした。修正箇所は一箇所のみ。「ASIOが動作中」を「ASIOでも動作」と変更しただけです。
冒頭の一行が意味が取り辛いのですが、これは原文が悪いのです。差分ファイルというのは比較対象のファイルのことです。オリジナルはDSD、FLAC、およびWAVのどういう形式でも良いということを言っているのです。

以上で、このプログラムの特徴は十分にご理解いただけたかと思います。

これがプログラムを実行中の操作画面です。



画面上の部分が操作パネルです。
左上でオリジナルのwaveファイル、比較するwaveファイルを指定します。フアイル名の右のボタンは L、R、L+R、stereoを指定出来て、チャネルに関する比較方法を決めることが出来ます。この指定仕方次第で、歪みの値がかなり大きく変わります。理由は良くわかりません。いろいろ試して見た範囲では、録音側の要因のように見えます。
その右のボタンを押せば、waveファイルを演奏させることが出来ます。ドライバは右側のパネルで選択できます。

画面の右上では判定対象範囲の指定、画面表示方法の指定、フィルターの指定などが可能です。画面の表示方法で周波数特性目盛りなどlog指定に変更出来ます。やってみると分かりますが、いたれりつくせりで、とても良く出来ています。

画面中央から下部はwaveファイルの表示画面です。こういう具合にオリナルのwaveファイルと比較対象のwaveファイルが色を変え、表示されます。
青がオリジナル、ピンクが比較用ファイルです。

画面下部一行には、評価した結果が表示されます。ここを見れば、大体の結果は分かります。

プログラムの使い方は次の通りです。


さて、このプログラムですが、上記説明の通りで、「電源ケーブル、USBケーブル、DAC、プリアンプ、DDC、ADC、デジタルフィルター、電源など」の比較に使えます。パパリウスさんはSMPDの二つのバージョンの比較に使い、開発に役立てているわけです。
当然異なるソフトの比較に使うことも出来ます。SMPDのスレッドでも、パパリウスさんが、参考として、SMPDとVolumioを比較しています。

同じことをWindowsとLinuxの音楽ソフトでやってみたらどうなるのかなと思い付きました。どうせだから、direttaも入れて試してみようと考えました。
結果はSMPDのスレッドに投稿しましたが、折角なので、こちらでも紹介しましょう。

同じ内容を書いても意味はないので、設定方法を変え、お化粧をした結果をご覧いただきましょう(データは同じです)。

測定環境

それぞれ2回づつ測定しました。

再生環境

解析条件

解析条件設定はパパリウスさんの設定ファイルを使い、設定しました(従って、以下の結果はSMPDフォーラムに僕が投稿した結果と異なります。投稿した内容はパパリウスさんの設定ファイルとは異なる独自の設定で行ったためです)。
ただし、上図の通り、比較に使用するチャネルはL+Rとしています。僕の環境ではこうしないと、良い値が出ないからです。

下図は設定画面です。



プログラムのディフォルトに対する変更点は以下の3つをオンにしている点です。

また、操作画面に示されているように20KHz以上の解析は、フィルターを使い、省略しています。

測定結果

ソフト/ハードDAC接続方法録音ファイルRMSDF
①SMPD 1.07(R-PI4 2MB) + AK4137(HDMI GLA B)HDMI(I2S)smpd-4137i2s-rec_01-71.38db-59.8db
②SMPD 1.07(R-PI4 2MB) + AK4137(HDMI GLA B)HDMI(I2S)smpd-4137i2s-rec_02-70.44db-53.3db
③SMPD 1.07(R-PI4 2MB) + AK4118SPDIFsmpd-4118spdif-rec_06-67.27db-49.0db
④SMPD 1.07(R-PI4 2MB) + AK4118SPDIFsmpd-4118spdif-rec_07-69.43db-50.4db
⑤foobar2000(Windows10+Surface)direttafb-diretta-rec_08-70.58db-55.2db
⑥foobar2000(Windows10+Surface)direttafb-diretta-rec_09-66.05db-47.1db
⑦TuneBrowser(Windows10+Surface)USBTB-usb-rec_01-65.25db-44.4db
⑧TuneBrowser(Windows10+Surface)USBTB-usb-rec_01-65.99db-45.6db


所感

さて、ここから僕の感想を書きますが、その前に定番のお断りをしておきます。

Delta Wave は、測定/解析条件により、結果が大きく変わるソフトです。従って、異なる環境の数値を単純に比較しても無意味です。
測定、解析結果と所感は僕の環境に限定されたものであり、それだけで全ての環境でのソフトやハードの優劣を示しているわけでは無いということを明記しておきたいと思います。DeltaWareの使い方の一つの例としてご覧ください。測定したのは、僕が普段音楽を聴いているサブシステム環境です。

上の表にまとめた測定結果ですが、SMPDフォーラムに投稿した内容と大きく異なります。解析条件をディフォル条から変更したためです。結果として、4種類の再生環境の違いを明確にすることが出来たかなと思っています。

SMPDフォーラムへの投稿では次のように書きました。

僕の結果に対する感想は
①SMPDラズパイ4でI2SとSPDIFの差がないのは意外だったな
②Windows勢は相当善戦しているな(direttaの実態はLinuxですが)
です。特にTuneBrowser(Windows10+Surface)は今この投稿を作成しているパソコンを使って、USB接続で再生しているわけですから、こんなに良い値が出るとは思いませんでした。

まあ全般的には聴感と一致する結果なので、こんなものなのかなと思っています。


補正後のRMSとDFの歪み値から評価すると、DACから見た4種類の再生環境の優劣は以下の通りとなります。

smpd1.07 ak4137HDMI接続 > Windows10 foobar2000 diretta ≒ smpd1.07 ak4118SPDIF接続 > Windows10 TuneBrowser USB接続

僕はこの装置を使って普段音楽を聴いています。今回のDelta Waveの補正機能を使った結果が僕の聴感と、ほぼ、一致します。その意味で、Delta Wave の今回の補正した評価結果は十分に信頼出来るかなと思っています。

最後に、補正後の再生環境の優劣をよりクリアに表現するグラフをお目にかけましょう。これは、SMPDフォーラムでパパリウスさんが提示されたdelta phaseを使う方法です。

直前の評価の上から順に並べてみましょう。

①smpd1.07 ak4137HDMI接続



⑤Windows10 foobar2000 diretta



④smpd1.07 ak4118SPDIF接続



⑧Windows10 TurboBrowser USB接続



一目瞭然ですね。ご覧のように、明快にそれぞれの環境の差が綺麗にグラフ化表示されていると思います。

グラフでの結果は

smpd1.07 ak4137HDMI接続 ≒ Windows10 foobar2000 diretta > smpd1.07 ak4118SPDIF接続 > Windows10 TuneBrowser USB接続

という感じに変わっています。

しかし、こうやってグラフで比較してみると、direttaは凄いですね。
使ったパソコンは僕がこの記事を書くのに使っているSurfaceですので、チューニングも何もなし。foobar2000も最新版ではなくかなり古い版のまま。Windowsはいろいろインストールしてゴミだらけ。しかも、録音するために、SoundEngineが同時に動いているという環境です。これで、ベストのsmpd1.07 ak4137HDMI接続と比較しても、そう差のないグラフになっているというのにはビックリ。まあ、Windowsといっても、DACと直接繋がる部分はLinuxだから、当然なのかもしれませんが、それにしても素晴らしい。Windows側のドライバもよく出来ているのでしょうね。立派です。さすがに、評判になるだけことはあると思いました。

TuneBrowserの数字はSMPDフォーラムの方には「まあまあだと思います」と書きましたが、こちらの方が実感に近いですね。「やっぱりWindowsはオーディオファイルには使えないな」という感想です。グラフは特に問題ありですね。上図はまだ良い方で、もう一つの悪い方は悲惨な結果でした。特に、DFの値が悪いことがこういう結果に繋がっているのでしょうか。

SMPDのHDMI接続とSPDIF接続の差は「まあこんなところだろうなぁ。予想通り」というところですね。

実は、ここのところ音楽を聴くのにもっぱらfoobar+direttaという構成を使っています。Windowsで楽譜を見ながら聴くのには一番便利なので。ネット仲間からはdirettaの設定を弄るともっと良くなると聞いていますが、不精をしてディフォルトのままです(surfaceじゃ、やっても無駄かなと考えているもので^^;;;)。クリーンなWindows環境を使い、適切な再生ソフトを選び、しかるべくチューニングすれば、もっと良くなるかなと思います。この組み合わせの可能性は大きいです。
あとはセパレート版のSMPDに期待ですかね。


同じ要領で、DAC比較とか、HAT比較とか、電源比較とか、クロック比較とか、いろいろなことが出来そうなのですが、あんまりやりすぎて、顰蹙をかうといけないので(^^;;;、自粛(自制かな?)しながら、公開してみますかね。

(PC_Audio)   2020/09/25

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ミシェル・ビュトール「ディアベリ変奏曲との対話」(4)


この本の日本語訳は1996年7月に初版が出版されています。ビュトールの原著作は1971年の発刊ですから、フランス語の原本が公開されて、25年後にようやく日本語として紹介されたということになります(ちなみに原著の元になったディアベリ変奏曲の演奏会+ビュトール講演会の開催日は1970年9月17日です)。

前々回にご紹介したように、この日本語訳は原著作に大量の注記を挿入し、ビュトールの本をそのまま読むのとはかなり異なった内容となっています。フランス語の原著がAmazonで買えるようですね。160ページ、10ドル。意外に安価ですね。日本語版はハードカバーですが、230ページですので、 サイズも考慮すると1.5倍以上に膨らんでいることになります。もっとも価格は50K円です。為替レートと本の体裁があるので、単純に比較はできませんが、数倍になっているのでしょう。ただ、この日本語訳は原著に素晴らしい付加価値を付け加えていますので、それだけの値打ちはあります。

何故、日本語訳がこのようにものになったのか。興味を持ちました。

訳者の工藤庸子さんはフランス文学の専門家です。ただ、ビュトールは訳者の研究の対象外で、訳書もこの本だけです。訳者は東大、放送大学の教授を努めていますので、検索すれば、著作リストを見ることが出来ます。音楽に関連する本はこの本だけです。訳書にメリメの「カルメン」やワイルドの「サロメ(の誕生)」がありますので、オペラには関心があるのでしょう。しかし、クラシック音楽愛好家ではあるが、専門家では無いようです。
以下、訳者の後書きからの引用です。

すでに何度か引用した「ブーレーズによるマラルメ」のなかで、ビュトールは、フランスが音楽批評というジャンルにおいては「未開も同然」であり、「あまり変わりばえのしないいくつかの心象についての曖昧模糊たる感情に則った評価と喚起、そうでなければ無味乾燥きわまる技術的分析」のいずれかの行き過ぎしか見当たらない、と嘆いていた。このエッセイの初出は、1961年の「エクスプレス」。一方「ディアベリ変奏曲」の演奏会=後援会が行われたのは、1970年であり、ガリマール社から本書が出版されたのが翌年、その後すでに二十年以上経過した。ビュトールは、音楽や絵画などについてさまざまなスタイルの「越境」をこころみており、相変わらず若々しく挑発活動をつづけているが、ひとりの作曲家、ひとつの楽曲について、これだけのエネルギーを投入した著作は、ほかにない。

それにしても、音楽批評の分野では、フランスにくらべ、「先進国」といえるかどうか、はなはだ心もとない我が国において、この謎めいた--ほとんど「秘法」の書物と呼びたくなるような--著作に翻訳の機会が与えられたのは、長年の友人で編集者である梅田英喜さんの半ば陰謀めいた企画が、「CDジャーナルベッ策Listen View」で実現されたおかげであった。このときは、季刊誌に9回連載ということで、1989年の春から二年後の春まで、自由にスペースを使い、レイアウトにも工夫を凝らし、さらに音楽関係の資料あつめから具体的な助言まで、全面的な協力をいただくというかんきょうに恵まれた。またちょうどこの時期、立教大学に招聘されたビュトールに会い、さまざまの疑問を解くことができた。書物の全体像がほぼつかめたと思ったのは、翻訳を完了したのちであり、その時点で、東京大学教養学部外国語科研究紀要にDialogue avec le《Dialogue》...(略)...と題した論文に書いた(その内容の一部は、本書に導入されている)。

こうしたいきさつがあって、さらに今回、一冊の書物として、「ディアベリ変奏曲との対話」の翻訳を上梓することができる。ビュトールのおかげで「楽譜を読む」こと、「楽譜の余白に書き込むこと」の面白さを知って以来、十数年におよぶ想いに、ようやく決着がつくという気がしている。(中略)
「学際的」などという言葉が流行し、学術研究や芸術活動の諸領域を横断する身振りが求められている。だがじつは、それを求めているという表向きの声とは裏腹に、たとえば「制度」としての「文学」や「音楽」に、じっさいどの程度、冒険を許容する度量がつちかわれ、「制度」そのものの質的変容がもたらされてきたか ? これもまた、実情は心もとないのである。ビュトールは、我が国のアカデミズムの「仏文」という枠組みにおいては、むろん公認の「文学者」であり、また世界各国で「ビュトール」をめぐるシンポジウムが開かれて、雑誌の特集号が編まれたりするのだが、そのなが「ディアベリ変奏曲との対話」は、やはりどちらかといえば鬼っ子のあつかいをうけている。(以下略)

「なるほど。この本は鬼っ子だったのね。納得」という感想です。
僕はビュトールという名前はプッスールのオペラ「あなたのファウスト」の台本を書いた人物という知識だけで、フランス前衛作家とは知っていましたが、ベートーヴェンの晩年の知名度の低いこの作品に、こんな思い入れだらけの本を書いている人とは夢にも思いませんでした。
また、そういう特別な位置にある本だから、訳者はビュトールの専門家でもなく、音楽の専門家でもなかったわけですね。日本にディアベリ変奏曲が好きなフランス文学者が存在し、上記のこのような経緯でこの本が出版されたことは幸運でしたね。

というわけで、ディアベリ変奏曲の全体構成を訳者が解釈した訳注をベースにご紹介します。
まず、全体構成。本文の発言ⅩⅠの註解にある訳注にあるチャートです。



この図は発言ⅩⅠとその註解でのビュトールの解説を基に作られたものです。よく出来ています。ディアベリ変奏曲に関してこのような全体の構成を示したチャートは初めてだと思います。ビュトールの考えは、「この変奏曲は第16、第17変奏を境として前半と後半の二部分に分けられる」です。この二部構成という見方は、同じような長大な変奏曲であるバッハのゴールドベルク変奏曲の全体構成と似ています。ビュトールはゴールドベルクの構成については講演の冒頭直後の発言Ⅱで論じています。著作ではこの発言Ⅱはもう少し後ろに配置されていますが、ディアベリの構成を説明する前にあります。ビュトールが、ゴールドベルクと比較してディアベリの構成を論じる、という形にしたのは巧妙な戦略ですね。
このゴールドベルクの構成も訳注にありますので、ご覧いただきましょう。



このゴールドベルクの構成はよく知られています。例えばグールドの二つの演奏もこの構成を踏まえた解釈がされています。まあ、バッハのこの構成は楽譜を読め、対位法の知識が有る人なら誰でも分かるものです。従って、この構成を無視する演奏はあり得ません。
ディアベリには、今まで、このような全体構成の解明が存在しなかったと思います。もちろん無かったということではなく、前々回、書いたように

様々な謎解きの試みがなされて来たが、結局、何故、「曲は単純で、どちらかといえばありきたり音楽として開始されるが、様々な大胆な方法で変容され、ついにはベートーベンの他の後記の作品でも特徴的なカルタシスを伴った変奏曲の連続として終わる」かは解明されていない。

ということだと思います。

この謎をビュトールが解きました。
シンプルなカノンベースのバッハの構成に対して、ベートーヴェンの構成は複雑です。しかし、そこに惑星という考え方を入れると、随分と、見通しが良くなる。各惑星はその前後の数曲の性格を支配する。ジュピター(木星)に始まり、太陽の中心軸を境にしてサトゥルヌス(土星)で終わる。その前後に主題と最後のコーダがある。
さて、このような変奏曲の構成についてビュトールの発言から引用してみましょう。二部構成の変換点である第14変奏から第18変奏までに関して。講演の発言Ⅷからです。

さてつぎに聴く6つの変奏からてる組曲ですが、これは交響曲「田園」の思い出にちみ嵐と名づけましょう。第14変奏では雲がむくむくと湧き、雷鳴がしだいに近づいてくる。第15変奏では太陽の最後の光線が下草に戯れる。これは行進曲、といっても小人の行進で、拍子も4分の4ではなく4分の2です。兵隊たちは、小さな地の精になってしまいました。いく筋かの閃光が、第16、17変奏の激しい嵐を予告し、ついで第18変奏では、虹がわたしたちの目のまえに現れる。第19変奏にいたって、若やいだ太陽の光線が雲をつらぬくと、その雲が散ってゆきます。
しかし問題はたんなる転向の嵐ではありません。トニカやドミナントはそれぞれの場所を個別化し、住人たちに魂を吹き込みます。そこにはたしかに何か力がはたらいているのであり、それゆえわたしはそれらの力に神の名を与えたのです。(以下略)

そして、この発言での音楽の文学的解釈は、続く註解で音楽の技術的解釈で補われます。

これら6曲の変奏のうちはじめの3曲はいずれも2拍子系(4分の4,4分の2,4分の4)であることによって互いに結びついている。とりわけ第16変奏は第17変奏金床にしっりと結びつき、作品全体の中心軸をかたちづくっている。これらは太陽の門の2つの扉にあたり、そのまわりを見わたすと、小人の行進(第15変奏)の最後と虹(第18変奏)の冒頭に、第二局面で重要な役割をはたす対位法の技法、鏡のカノンがある。さらにこれら2曲を扉の支柱に見立てれば、それらをかこむ位置、すなわち嵐の接近(第14変奏)と光の幻想曲(第19変奏)のそれぞれに、ほかよりずっとはっきりした形で、すでに何度も耳にした8度のカノンが現れる。

それはさながら、中心軸となる一対の変奏が、二重括弧でかこまれているような具合なのだ。6曲は、ひとつの総体をなしており、真ん中で断ち切ることは不可能だ。かりにそれが許されるとすれば、そこに沈黙を導き入れるためではなく、発展的な拡大演奏のため、つまりそこから主題曲にもどってすでに期待ところを全部演奏しなおす場合だけだろう。

いかがでしょうか。見事なものでしょう。
この曲の中心部分に関する見事な解析です。生命の源の光を供給する太陽が中心にあり、それは嵐のようなものだといっているわけです。そして、太陽はど真ん中の分離することの出来ない二つの変奏で構成される。前後にはその太陽を支える人間の行進と自然の風景が見える。さらに音楽的には、それらの部分は拍節、音程関係など関連付けられている。この秘法のような構造を綺麗に謎解きすることにより、ディアベリ変奏曲の真の姿が分かるというわけです。
それで思い付きました。ディアベリ変奏曲オプショナルツアー。この6曲とその次の第20変奏を連続して聴いてみましょう。

第14変奏から第20変奏


ビュトールの見事な分析が良くお分かりになったかと思います。残念なのは、この本が欧米の音楽好きにはあまり読まれていないように見えることです。例えば、ブレンデルは「音楽のなかの言葉」という本のなかで、ディアベリ変奏曲の詳細な分析を行っているのですが、ビュトールのこの本への言及はありません。ブレンデルの分析は晩年のベートーヴェンの諧謔的作風に関する鋭いものですが、ビュトールと「対話」すれば、もっと深まったと考えるのですが、残念です。
結果、グールドのゴールドベルク解釈に匹敵するディアベリ解釈が、前衛作家ビュトールの前衛性故に、「鬼っ子」として、埋もれてしまっているのは残念です。日本語の訳注を英語に翻訳し、原文だけでは理解の難しい点を補った新しい本として再刊されれば、ディアベリの新時代を迎えることが出来るのではないでしょうか。
辣腕の音楽本の編集者の登場に期待します。

日本ではこの本は、多分、値段が高すぎたのでしょうね。いい本だけど、売れなかった。 文庫本かオンライン出版にして、値段を大幅に下げ、再販して貰いたいものです。
飽きもせず、9曲の究極の交響曲ばかり聴いていないで(^^;;;、10回に一回位はディアベリを聴きましょう。

(Review)   2020/09/05

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ミシェル・ビュトール「ディアベリ変奏曲との対話」(3)


レコード芸術の今月号はまたベートーヴェン特集ですね。コロナの年に(だからかな)3回目の特集とは。凄いですね。この調子だと、年末にもう一回やるだろうから、一年の特集記事の三分の一はベートーヴェンとなります。
今回は交響曲特集です。サブタイトルが『9曲の「究極」』。「なんで全ての曲が究極なんだ。モーツアルトの後期交響曲は究極じゃないのか。ブラームスは、マーラーはどうしてくれる。ショスタコーヴィッチを忘れてもらっちゃ困る」とか、イチャモンを付けたくなるが、レコ芸の読者は、皆、ベートーヴェンが好きなのですかね。
こうなったら、ヤケのヤンパチ。年末の特集は「ディアベリ変奏曲の謎を解く」というようなタイトルにして、この曲の謎解きとベートーヴェンの最大傑作であることを認識させる内容にしたらどうかと提案します。
是非、企画していただきたいものです。

さて、前回の記事で書いた「悪巧み」とは何か。
「全曲の構成の説明に入る前に、要になる曲だけ、まとめて聴いてみよう」というアイディアです。このアイディア、前回ご紹介した注記を使った全曲解説シリーズの最初の注記(この本の演奏会でそれぞれの発言の曲のどこに挿入されているかの一覧)を見ていて、思い浮かびました。

題して「ディアベリ変奏曲ハトバス観光ツアー」。東京を全部見学するのは大変だから、取り敢えず、名所旧跡だけ見学してみよう。同じ要領で、ディアベリ変奏曲観光ツアー。全曲聴くのは疲れるので(^^;;;、要になる曲だけ聴いてみようというわけ。「神聖なるベートーベンの傑作になんという仕打ち。バカヤロー」というご意見はあると思います。しかし、ビュトールさんは賛成すると思うので、無視(^^;;;。

YouTubeって、どこからどこまで再生するかを指定することが出来るのですね。それで、このハトバスツアーを思いつきました(^^)。やってみます。
ディアベリ変奏曲観光ツアーのガイドは、当然、ビュトール。観光バスの運転手(演奏)はソコロフ。楽譜付きの再生ですので、前々回、記述した曲毎の構造の確認も出来るかとおもいます。

なお、全てを初期状態に戻したい時はこのページの「再読み込み」をやって下さい。

テーマ(変奏曲主題)


発言Ⅰ

1921年、ウィーン在住の楽譜出版業者アントン・ディアベリが提案した主題とは、このようなものでありました。相手はベートーヴェンだけではなく、知り合いの作曲家50人ほど。ごぞんじのように、はじめベートーヴェンはすげなく申し出を断りました。とりわけ彼が馬鹿にしたのはロザリアと呼ばれる4つの8分音符のモチーフです。このモチーフは、そっくり同じ形のまま異なる高さてくり返され、第一部の前半の二つのフレーズをしめくくります。まるで靴の修理屋がパッチをあてたようだ、と彼は評しました。


第1変奏(ジュピター、木星)


発言Ⅰ

彼がまずやったのは、出版者の主題曲を、さながら王侯から賜った主題曲のごとくに翻案してみせることでした。これがあの荘重な行進曲、ひとつのメロディをひたすら忠実にささえてゆく和音で強調しただけの第1変奏です。この威風堂々たる曲に、モーツアルトの交響曲にちなんでジュピターという名をあたえることにいしましょう。


第5変奏(ヴィーナス、金星)


発言Ⅲ

たとえば、ここで、つぎに聴く第5変奏「湧き出る泡」について考えてみましょう。この曲にも、第一翼と第二翼それぞれに反復がありますが、第一翼のくり返しはたんに通常の反復記号で支持されているのに対し、第二翼のくり返しの部分が初回につづけてもう一度全部書きなおされています。ところで譜面のうえでは、第二翼の前半と後半のちがいはじつは一箇所だけ、すなわち前半冒頭で3つの休止符であったところを、後半冒頭ではミとソの和音が占領します。この和音は、先行する和音によって準備されますが、両者のあいだには音符ひとつのずれがあるだけです。こうした動きのすべては、2つの小節に完全におさまっていますから、ベートーヴェンは、ほかのところでよくやっているように、問題の小節だけを別に書き出すことも容易にできたはずなのです。しかしそうしなかったことで、楽譜を読む者にあたえる効果は、まったく違ったものになりました。まず、前にもどる必要がありませんし、それにはじめて楽譜を読みとるときには、そこに反復があるという事実さえ気がつかないかもしれません。このような書き方によって、全体の進行は直線的になります。本来はト長調だった第一翼のおわりが、ホ短調に変わったりして、和声的な枠組みがぐらついているだけに、そうした印象はいっそう強くなりましょう。第二翼前半がおわるところでつけ加えられた和音は第一翼をしめくくるホ短調の和音を再生させながら、そこにふくまえれていたト音を強調しています。このようにして、あたかも変奏曲の中心が移動したかのような印象が生まれます。反復は、さながらあらたなる出発のごとく響き、曲全体の上昇運動はいやがうえにも増幅されるでしょう。


第9変奏(キュベレ、地球)

発言Ⅴ

ここで第一局面の後半のはじまりを告げる第9変奏の行進曲(アレグロ・ベザンテ・エ・リソルート)を聴きましょう。これに先立つ演奏はしだいに風通しがよくなったとはいえ、すべて都会風のものでしたから、この曲の農民的な性格と、それにともなう夢想のユーモアは、ひとしお強い印象をあたえることでしょう。わたしはこの曲に、大地というなを与えることを提案します。


第13変奏(マルス、火星)

発言Ⅶ

第13変奏は、たしかに3拍子であるけれど、にもかかわらず、いちばん軍隊風です。それゆえこれをマルスと呼ぶことににいたします。まさに太古の連打です。ジュピターの行進(第1変奏)によく似た同音の前打音は、田舎の行進曲(第9変奏)の粒だった装飾音や、湧き出る泡(第5変奏)の渦巻く装飾音とは対照的であり、指示されたものよりひとまわり大きな小節をうきあがらせ句という効果があります。はじめの2つのフレーズでは、4つの4分給付がそれぞれ音のグループを隔てていますが、そのためにテンポはヴィヴェーチェであるにもかかわらず、これらのフレーズ全体は、観兵式の行進のようにゆったりとした小節ひとつ分のようにすら感じられます。つづく2つのフレーズでは、行進の歩調が突然速くなります。この軍隊行進曲は、おどけた行進曲でもあります。鉛の体調に死期された石の兵隊たちが押し合いへしあいしているところ、とでも言いましょうか。「エロイカ」の勇壮な世界は、はるかかなたです。


第16変奏/第17変奏(太陽)


発言Ⅴ

とりわけ重要なのは、そこからすべてが分節化されて行く中心軸、すなわち中央に位置する1小節、あるいは2つの不完全小節に分かたれる16番目の小節です。曲全体の形象というレベルでこれをとらえるなら、この中心軸にあたるのは、もちろん第16,17変奏「鎚と金床」あるいは「太陽の門」でしょう。2つの変奏は、さながら一個の独立した変奏曲を構成する2つの翼のごとく結びついており、第17変奏は、第16変奏の冒頭を転回させた形ではじまります。これまでわたしたちが耳にしてきたさまざまの転回はことごとく、この本質的な大転換を準備するためにあったと言わんばかりではありませんか。あえてこの蝶番を引き裂こうとした演奏者は、これまでのところいないようです(16分音符で叩きつけるこのすさまじい嵐のさなかで、急に立ちどまることなどできましょうか)。それに鎚(第16変奏)の和声進行は、本来はハ長調ではじまるべきなのに、ただちにト音が支配的になり、これが第一翼のあいだずっとつづきます。主題曲の基本的和声進行に対立するこのような変則性は、それ自体はいくぶんか覆いかくされ、ぼかされているものの、他方で、先行する曲「小人の行進」(第15変奏)が、この変則性を際立たせます。それというのもこの曲は、唯一の例外として、中心軸をしっかりとハ長調においているからです。



発言Ⅸ

ベートーヴェンもディアベリのワルツの中心軸にあるソ音を彼の惑星系の中心に据えました。ただし彼は、このソ音を中心的なヴァリエーションにおいて全面的に発展はさせません。たしかにソ音を基礎とするドミナントの和音は鎚(第16変奏)の第二翼全体と金床(第17変奏)の第一翼の基礎に横たわっている、すくなくともそれに匹敵するものがあると言えましょう。しかし、前後の二つの翼には雲が覆い被さり、それが中心軸をはさむ2翼にまで拡がっています。これは食です。太陽の赤い円盤は見えなくて、そこから放射される光景だけが、目に入ります。

今は嵐と、戦いの時です。

第16変奏はアウフタクトではじまる長いトリルの稲妻がまずあって、行進曲のモチーフが現れる。右手がこのジュピターの行進のモチーフを、スピードを速めて再現するあいだ、下の方では雷鳴が轟いています。このモチーフは、金床(第17変奏)では左手、つまり下の音域に移ります。ジュピターは深淵に転落したのです。打ち倒された瞬間に、モチーフも形をかえました。アウフタクトの長いトリルが消え、第1フレーズですでにもう、あの大フーガを特徴づける規則的な4分音符によく似た連続音によって、このモチーフは押しつぶされてしまいます。

2扉は今のところ太陽を隠していますが、その門が、細めに開かれはじめました。しするとサトゥルヌスがジュピターを打ち負かす光景が、さながら浅浮彫に刻まれたように、ぱっと目に入ります。黄金の時代がもどってきたのです。


第20変奏(ディアナ、月)


発言Ⅸ

ベートーヴェンは十八世紀で足踏みしているわけではありません。たとえば弦楽四重奏曲第15番第三楽章「感謝の歌」は、リディア調と呼ばれる教会先方で書かれており、このいかにも十六世紀的なポリフォニーをとおして彼は昔の音楽へとさかのぼろうとしています。あのゆるやかな月の行進(第20変奏)も同じように、わたしたちを十六世紀につれもどしてくれます。そう感じる原因は、まず反復記号がないこと、この曲全体が、時間的なずれの大きいカノンではじまり、鏡のカノンでおわること、さらに長めの音符がたくさんつづくため、オルガンのテヌートのような印象をあたえること、などあるでしょう。じっさいには、ベートーヴェンは十六世紀の音楽に関してどの程度のことを知っていたのでしょうか。たぶんパレストリーナはいくらか知っていたのでしょうが、半音階的な動きが多いことからすると、もっと別の作曲家の名をあげるべきかもしれません。たとえばジェズアルドですが、ベートーヴェンはおそらく彼のことはしらなかったはずです。またラッスス知っていたとしても多分名前だけでしょう。
しかしこの影と反映の動きのような音楽に耳を傾けていると、もう一人の名前が頭に浮かびます。とりわけ第3フレーズに相当する反復的な小節のあたりは,まさにクロード・ドビュッシーです。ドビュッシーもまた、時代に先駆けるために、過去を積極的に発掘しようとこころみた作曲家でした。


この曲に関しては、野平一郎の分析が圧倒的に面白く、印象的です。こちらも引用してみましょう。

一方、こちらは第 19 変奏の対極にある。この変奏には、調性からあまりにかけ離れて、ミステリアスなパッセージがある。そのために、カノンであることが分かりにくいのだが、実際は立派なカノンになっている。【譜例 30】



しかしあたかもコラール風に和音が付けられている。上の声部がニ声で始まるためにハーモニーが生まれ、対位法的であると同時にハーモニー的でもある。こうした性格がそのあとで前衛的なハーモニーになり、半音階的関係にある 2 音で構成される【譜例 31 b-h, f-e, g-gis】。



D という共通音を介在させ、短七の和音(第 9小節最初の和音)が、半音変化して属七の和音に進んでゆく(第 9 小節第 2 の和音)。
さらに pp になると【譜例 31】、機能和声で説明しがたいところまでいき、cis と c の半音階関係が作る対斜が、かなりのインパクトをもっている(第 11 小節の cis-c)。ところが第 13 小節以降は、非常に慣習的なハーモニーに動く。
後半は、ソ-シ-ド---(g-cis-d---)と始まる音型が三声で入ってくるわけだが、しかしそれは全てコラール風ハーモニーに解消してしまう。つまり対位法的に始まってハーモニーに解消する。

冒頭、ブクレシュリエフを引用した箇所で、ベートーヴェンとウェーベルンはつながりがあるといったことを述べたが、それは言わずもがなであって、ヴェーベルンは 12 音技法の中で、対位法とハーモニーの関係を最も真剣に考えた作曲家なのである。ヴェーベルンにとってハーモニーは、対位法が同時的に置かれたものだった。すなわち対位法とは、複数の声部が継時的に置かれるから対位法的に聞けるのであり、これを凝縮して一つの時間に収めてしまえばハーモニーになる。ハーモニーと対位法のこうした関係を最も考えたのがウェーベルンだったが、その考えはすでにベートーヴェンにその萌芽が見られる。

さすが作曲家の分析だなぁと思いました。

第24変奏(ウラヌス、天王星)


発言ⅩⅠ註解

乙女=聖母によって、わたしたちは、宗教的な意味合いでき天に導かれる。小フーガは祈りである。もっとはっきり、聖母マリアへの祈祷だと言ってもよい。ここでは聖母マリアが特権的な地位にあり(この点を、ベートーベンの伝記的な諸事実に結びつける仕事は、精神分析にまかせるとして)、ウラヌス=天王星は、聖職者たちの生活の場面をとりしきってはいない。教会、その建物自体は、とりわけひとつの劇場、『ミサ・ソレムニス』など、ある種の作品が演奏できる劇場にすぎないとみなされる。礼拝の行為としてベートーベンがうけいれるのは、せいぜいこの程度だった。


第28変奏(メルクリウス、水星)


発言ⅩⅢ

たとえば2番目のミニチュア行進曲(第28変奏)は、小人の行進曲(第15変奏曲)と同じく、4分の2拍子ですが、その第二翼冒頭は明らかに偽物の行進、亡霊の行進であって、なぜならここでは、前に行進するはずのものがひょこひょこと後ろに下がってしまうことがあるのです。ベートーベンの作品すべてのなかで、「ディアベリ変奏曲」ほどユーモアにとんだものは、ほかにありません。
このゆらゆら行進曲(第28変奏曲)の第一翼が、正確な意味で、後退する旋律の動きをふくんでいないとしても、少なくともそこには、きわめて手のこんだ交錯技法が使われています。わたしたちのプラネタリウムでこき変奏が、メルクリウス、すなわち科学の星に対応するのは、ゆえなきことではありません。葡萄のとり入れをする人々夕べをつかさどるこのメルクリウスは、ディオニウス的人物でもあります。ベートーベンはラブレーを読んだことがあるのでしょうか。


第32変奏(サトゥルヌス、土星)


発言ⅩⅤ

さて大フーガを解説するについては、ジェラール・ド・ネルヴァルに発言をゆずりましょう。ただし彼は、この曲を聴いたことはたぶんないはずです(注30)。 『大王ソロモン・ベン・ダウドの計画に奉仕するために、家来のアドニラムは十年来睡眠も快楽も宴会の喜びも捨てて顧みなかった。エルサレムの王が主アドナイのためにまた自分の偉大さのために用意した、あの黄金と香拍と大理石と制動との住居を建築するために無数の蜂の群れのように協力していた。職人たちの督者アドニラム大棟梁は、設計図を組み合わすために毎夜を、また建物を飾るべき巨大な像を型どるために毎昼を、過ごしていた。
彼は未完成の神殿から程遠からぬはころに、数多の鍛冶場や、地下の溶鉱場を建てた。鍛冶場では絶えず槌の音が響き渡り、溶鉱場ではどろどろの制動が砂で出来た百本もの堀割を流れ、さまざまなものの形を作っていた。それは、獅子や虎や翼のある龍やケルビムや、或いはあの雷に打たれて亡びてしまった奇妙な精霊たち・・・人間たちの記憶の内で半ば忘れられてしまった遠い昔の種族たち・・・さえもあったが、そんなさまざまな形だった(注31) 』

さて、これだけでは、なんのことやらですよね。困った時の訳注だのみ(^^;;;。続く、訳注ページをお目にかけましょう。



第33変奏(コーダ、メヌエット)


発言ⅩⅤⅠ

ベートーベンが思い描く作曲家とはよみがえったモーツアルトのようなものだったのでしょう。彼はコーダのなかでこうした祈念をモーツアルトに対し、両手一杯に投げかけているように思われます。

コーダは25小節からなり(メヌエットは反復を数えぬとして、24小節あるから、ここであらたに、より高いレベルの3拍子が構成されているわけであり、それに最後の謎めいた和音の1小節がプラスされる)、8つのヴァリエーションのはじまりが、はっきりと見てとれます。それらは4つの変奏からなる2グループに分けられ、最後のいくつかは、ミニチュア変奏のように花開く。第一グループをしめくくる変奏は、第二グループがずっと短いため(まず17小節、あるいは16小節プラス1小節が一方にあり、他方には8小節、つまりこれも一種の3拍子)、実際は全体の中心をしめますが、これは対の構造つまりそれぞれが4小節の2つの面からなっており、後半は冒頭を転回させた形ではじまります。この部分は、装飾音のつけ方といい、太陽の門(第16、17変奏)を思い出させずにはいないのです。だかそれだけではなく、ここでは扉がすっかり開け放たれているように見えるではありませんか。



ディアベリ変奏曲観光ハトバスツアーはいかがでしたでしょうか。こういう具合にバスガイド・ビュトールの案内つきで聴くとこの曲の全体構造が簡単に理解いただけたのではないかと思います。
この曲は主題の提示と最後のコーダを除くと32曲の変奏曲で構成されています。そして、その真ん中の第16変奏と第17変奏で前半後半が分かれます。驚いたことに、この第16、17変奏は連続して演奏せざる得ないように作曲されていて、そこに全曲の割れ目があることに気が付きにくくしています。前半は行進曲が後半はフーガとカノンがほかの惑星に割り当てられ、ある意味でシンメトリカルな構成になっています。

詳しい説明は次回に。

(Review)   2020/08/29

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土鳩が二匹(二羽かな?)、家の庭で


タイトルの通りですが、カメラを持って近寄っても、まったく動ずることなく、この暑さにもめげず、庭で日向ぼっこ(なのかな?)していました。



この二羽、御夫婦なのかしら。一羽が立ち会って歩き出すと、もう一羽もいっしょに行動。仲は良いようです。



芝生から時々ミミズ(ブログのタイトルとは無縁です^^;;;)が顔を出しますので、美味しい餌場と考え、住み着くことにしたのですかね。



このあたりはアプローチの練習のダメージで、芝が枯れていますです。



一匹が毛繕い。ハトでも、毛繕いするのですかね。



ゴルフボールには興味は無いようで、そのまま隣のお家の境に。



こっちを向いてくれました。



この後、どっかに飛んで行ってしまいました。また戻ってきますかね。





ディアベリ悪巧みの件は次回におあずけ。

(others)   2020/08/21

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ミシェル・ビュトール「ディアベリ変奏曲との対話」(2)


コロナ騒動で孫にも会えなくなり、面白いことは何も無いのですが、「コロナ事件とは貴重な経験を出来た時代だったのだろうなぁ」と思っています。我々は戦争体験のない世代ですが、コロナは一種の戦争体験のようなものです。ただ異なるのはこの国ではある程度の言論の自由が確保されていることです。
世界各国の状況がつたえられ、日本の指導者たちの無能ぶりをこれほど明らかにしてくれる事件はないのに、何で、皆、大人しく我慢をしているのですかね。まあ、トランプやボルソナロよりはましなのだろうが、この国の指導者たちも酷い。
東アジア諸国では、多くの国で鎮静化出来ているのに、日本は駄目とは。何たることだといいたくなります。知事の多数決で国の指導者達を罷免に出来ると制度だったら、とっくの昔に全員首ですよね。マスコミも何で徹底的に批判しないのだろうか。まともなことを言っているのは一部の新聞の寄稿者達だけですね。
変です。「何で孫に会えないのだ」と怒り狂っています(^^;;;。

このタイトルで二回書くつもりは無かったのですが、前回、脱線しぱなっしで、肝心の本の中味は殆ど紹介していなかったことに気が付きました。という訳で続けます。

ネットで調べると、この曲を取り上げているサイトはいろいろありますね。
ディアベリ変奏曲はベートーベンの曲としてはあまり人気が無いから、情報も無いのかと思っていましたが、誤解であったようです。英文だけかなと考えていたら、日本語のサイトも結構あります。やっぱりマニアの嵌まる曲だからですかね。

英語でお勧めなのは、WikiPediaのこのサイト。曲の成り立ち、過去の分析、楽譜付きで全曲の詳細解説などからなり、素晴らしい出来です。必読。
他に英語のディアベリサイトは山ほどあるのですが、決定打に欠けるのですよね。これぞというサイトがありません。やはりビュトールの本が一番ユニークです。

日本語では以下の三つのサイトが面白かったです。

最初に紹介した英文のWikiPediaにこんな記述があります。

Since the work was first published, commentators have tried to find patterns, even an overall plan or structure for this huge, diverse work, but little consensus has been reached. Several early writers sought to discover clear parallels with Johann Sebastian Bach's Goldberg Variations, without great success. Others claimed to have found symmetries, three groups of nine, for example, although the penultimate Fugue had to be counted as five. The work has been analyzed in terms of sonata form, complete with separate 'movements.' What is not disputed, however, is that the work begins with a simple, rather commonplace musical idea, transforms it in many radical ways, and ends with a sequence of variations that are cathartic in the manner of other late Beethoven works.

つまり、この曲は良く出来た探偵小説のようなもので、謎だらけということです。

様々な謎解きの試みがなされて来たが、結局、何故、「曲は単純で、どちらかといえばありきたり音楽として開始されるが、様々な大胆な方法で変容され、ついにはベートーベンの他の後記の作品でも特徴的なカルタシスを伴った変奏曲の連続として終わる(the work begins with a simple, rather commonplace musical idea, transforms it in many radical ways, and ends with a sequence of variations that are cathartic in the manner of other late Beethoven works).」かは解明されていない。

この謎をあざやかな手口で解いたのがビュトールの「ディアベリ変奏曲との対話」です。

実は引用したwikiPediaのページにこの本の名前は紹介されています。ただ、何が書かれているかについては一切説明がありません。ロマン・ロランではないフランスの小説家がまさかディアベリの謎解きをしているとは考えないので、読んでないのでしょうね。難解な書物だから、英語への翻訳の出来が悪いのかもしれません。
後で詳しく紹介しますが、日本語訳は素晴らしい内容ですね。本文内に適切な注記が埋め込まれ、難解な部分もちゃんと理解出来るように配慮されています。

ネットでも、この本は名前は上がりますが、適切に紹介しているサイトは見かけませんでした。ビュトールという名前に幻惑されて、皆、読むのを止めちゃっているのではないですかね(そんなことないか^^;;;)。

と言う訳で、ここでは、ビュトールの解いた謎の答えを紹介したいと思います。

答えは二つあります。一つは個々の曲の構成に関するもの。もう一つは曲全体の構成に関するものです。

まず変奏曲、個々の曲の構成について。

前回引用した冒頭の「提案」の少しあとに「解説」という章があります。この章の最初の部分にディアベリ変奏曲、各曲内部の構成に関するビュトールの分析が書かれています。
これがビュトールの答えです。ちょっと長くなりますが、ポイントとなる部分を引用します。

自律性に段階的変化があるという特徴は、曲と曲へのつながり具合だけでなく、楽節の内部構造にもあらわれています。基本的な枠組みは、それぞれが16小節からなる一対の翼(注7)でできています。その両方が反復されますから、全体はAABBと図式化されましょう。また第一翼はトニカ(ハ長調)からドミナント(ト長調)へと移行し、第二翼は逆向きの和声進行になります。これはTD、TD、DT、DT、と図式化できます。通常の変奏は、主題と同じく64小節からなるはずです。

ところで第二翼は第一翼の和声進行を逆行させ、ほぼ同じリズムを再現しますから、これ自体、第一翼の変奏だとも言える。第一翼、第二翼ともに、それぞれが4小節のフレーズ4つからなり、はじめのフレーズ2つはたがいに照応し合います。4つの8分音符でできたモチーフ、ロザリオは、全体で4回書かれ、演奏された場合は8回耳にします。それぞれの翼の内部では高さを変えただけでは2回、第一翼から第二翼にかけてはほぼ転回(注8)させた形で、このロザリオがくり返されています。

ハ調からト調への、またト調からハ調への転調はどちらも第2フレーズの最後ですでに完了しています。ここにもあたらしいシンメトリーをみとめることができましょう。さらにフレーズの内部にも反復の要素が見つかります。第一翼、第二翼の3番目のフレーズは、同じリズム形式が4回くり返されており、2回目には1回目を、4回目には3回目をそのままに反復したもの手す。このフレーズはAABBの図式を縮小(注9)して再現するわけです。

こうして主題曲の楽譜は、つねに2つの小節にまたがった3拍のリズム細胞32個により構成され、同時に、さまざまなレベルで反復ないしは変奏の現象をはらんでゆく。まずひとつのリズム細胞とつづく細胞の関係、1フレーズの半分にあたる2つのリズム細胞とつづく2つのリズム細胞の関係、4つのリズム細胞、つまり1フレーズとつぎのフレーズの関係、8つのリズム細胞、つまり各翼の前半とつづく後半との関係というふうに。16のリズム細胞、つまりひとつの翼全体とつづく16のリズム細胞は正確な反復か、さもなければ変奏の関係です。32のリズム細胞とつづく32のリズム細胞の関係は、第一翼から第二翼にかけての変奏をはらんだ移行に重なります。ベートーベンはこうした内的なヴァリエーション関係を、ときにより大いに強調しています。たとえば第一フレーズの前半と後半にあるこうした現象は、はじめて聴いたときはホトント気づかれずにすぎてしまうでしょうが、第28変奏メルグリウスでは、明快に浮き彫りされており、(括弧内を略す)ここでは第3リズム細胞が第1リズム細胞を正確に再現しています。

このように、全ての変奏曲に共通の変奏ルールを記述されています。
このルールがほとんど全ての曲にきっちり適用されているので、個々の曲どおしが、どんなに旋律、和声、速度など異なっていても、共通の一貫性が保証されることになります。個々の曲がバラバラに存在するのではなく、それぞれが関連性をもち、この変奏ルールにより統一した印象を生じるのだと思います。
日本語訳では、このルールの各曲にどのように適用されているかの分析結果が、注記で示されています。

次は、ビュトールの提示した曲の内部の変奏ルール(直前の引用部分)を使い、訳者が全曲を分析した内容です。



4、8、16といった数字の世界に個々の変奏曲がはめ込まれていることがよく分かる分析結果です。
楽譜を見ながら曲を聴くと、このルールが音形のイメージとして理解でき、「なるほどなぁ」感心します。

本書の日本語訳の注記は重要です。ビュトールの難解な思想を理解する上で、この注記は大きな助けとなます。この点をご理解頂くため、幾つかの例を挙げてみましょう。

上記の引用部分に続いて、第28変奏の楽譜が引用されているページをお目にかけます。



前回、 「本書はディアベリ変奏曲の演奏会で曲と曲の間に挟まれて行われた講演内容(16の断章からなる発言)、講演内容を再構成するために後から付け加えられた注解、発言と注解を結びつけるタイトルと謎めいた詩のような断片から構成されています」と書きました。一つ重要なことを書き忘れました。訳注が本文に挟まれいることです。
この訳注の内容が素晴らしい。難解な本文をパーフェクトに理解させてくれます。その例が上記のページの注部分で確認できると思います。

そして、お目にかけたページですが、その前に引用した文の直後に続くページです。最終行の「ここでは第3リズム細胞が第1リズム細胞を正確に再現しています。」という文は引用してあるので、重複します。「括弧内を略す」と書いた部分はページの本文、初めの5行として、縦書き表示されている訳です。
原文はフランス語なので文字は横書きのはずです。一方、日本語訳では本文や注記は縦書きになります。そして、引用されている楽譜は、当たり前ですが、日本語でも、フランス語でも、横書き(というのかな?)です。
これが、日本語訳のユニークなレイアウトを可能にしました。このページがその例です。
そして、ご覧のように、注記は本文の一部として読めるように構成されています。このように、右側が本文(この場合は発言)、左上に楽譜、その下に訳者の注記が配列されています。

注記は楽譜の下に小さい活字で書かれています。これが本文の引用部分の(注8)、(注9)として示した部分に対応する注記となります。読んで頂ければ、本文のちょっと分かりにくい部分を解説する丁寧で、見事な注記になっていることが、お分かりかと思います。

注記は本文の中に含まれ、しかも、その存在を明らかに異なるものとして表記されています。これは、もともとのビュトールの本文(発言(講演内容)、注解、タイトルと詩、)と楽譜からなる構成を、更に重層的に発展させることになっています。つまり楽譜と日本語の注記が本文と連続して並列されることにより、本文で論じられている内容が、より一層深く注解されます。

楽譜無しの本文と日本語の注記だけのページもあります。先に引用した頭の部分が掲載されているページをご覧いただきましょう。「自律性に段階的変化があるという特徴は、曲と曲へのつながり具合だけでなく、楽節の内部構造にも」から先の10行ほどです。



ご覧のように、本文が右、注記が左で活字の大きさを変え、注記は三段に分け表記されています。注(5)(6)はこのページの見開き右のページに書かれている内容に関するものです。注(5)は「発言Ⅲ」というタイトルに付けられた注です。この章が「発言Ⅰ」に続いて配置されていること説明しています。注(6)は「ひとつの休止符」という部分がどこかを示しています。

さて、このページを丸ごとコピーし、お目にかけたのは、注(7)を読んで頂きたかったからです。

引用部分に注記を残したのでお分かりのように、これは、引用した本文の「一対の翼」という言葉に対する注記です。この「一対の翼」という言葉はここで突然登場し、本文には全く説明がありません。従って、原文だけだと、何を意味するかは自分で考えるしかありません。

翼とはフーリエの象徴体系で重要な概念であり、ビュトールのベートーベンの解釈とも符号するらしいのですが、ビュトールの愛読者以外の人は、そんなことを知らない。と言うわけで、訳注が必須となります。
こういう部分は他にも一杯あります。結果、注記に助けられ、日本語訳でこの本を読む読者だけが、ビュトールの考え方を理解できるということになるのですね。素晴らしい日本語訳者が存在したことは幸運なことです。


さて、個々の曲の統一性は分かった。次に全体がどう構成されているかです。実はこの注記だけ拾い上げることで、この全体構成を知ることが出来ます。説明に入る前に、関連する注記部分を見てみましょう。

まず、この本の構成に関して。



この「発言」という講演内容を挟んだ場所は、結果として、ビュトールがこの曲の全体構成をどう把握しているかを示しています。発言が挟まれている曲の場所が、彼が構成のポイントと考えている曲の前後となります。
このようにディアベリ変奏曲をズタズタに分断し、何故、そこで分断したのか、その分析結果を「発言」として、講演したわけです。従って、この分断した場所をチェックすれば、全体の構成が見えきます。

続いて、各曲のビュトールが付けたタイトルを抜き出した一覧表です。



このタイトルは彼の講演の発言の部分で曲の紹介に使っているものです。曲と曲の関連や全体の中での位置づけを示すために個々の変奏曲に名前を付けたわけです。特に要となる曲は太陽系の惑星に関連付けら名前が付けられています。

このタイトルを惑星に結びつけ、取り出した一覧も注記として解説されています。
これが全曲構成の要の曲を抽出した表となります。



三つ前のこの本の構成を示した表と見比べて頂くとわかりますが、ビュトールが発言を挟んだ部分がこの要の7曲の前後です。つまり、彼は要の曲を聴く前後に発言をしているわけです。これは彼が全曲の構成を意識しながら、発言し、演奏を聴かせたことを意味します。
そして、表の左の訳注の説明は重要です。何故、太陽系なのか。何故、惑星なのか。西欧の古代天動説と神話の関係を前提にして、ディアベリを分析する。「ならべた変奏曲にさまざまのレッテルをはって整理する錬金術師のような風貌を見せている。」わけです。

さて、この表を眺めていて、ある悪巧みを思いつきました。「悪巧みとは何だ、白状しろ」とおっしゃるでしょうが、悪巧みは隠しておくから意味があります。そう簡単にバラしては面白くない(^^;;;。
従って、解答は次回に回します。

(Review)   2020/08/15

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ミシェル・ビュトール「ディアベリ変奏曲との対話」


感染者数はV字回復するが、経済はV字回復出来ない某国に住む住民としては、身の安全は自分で確保するしか無いようです。困ったものだなぁ。まあ “Go To Trave with coronal anywhere” と煽るだけの無策の方々の言うことは聞かないようにするしかないですね。


さて、タイトルの曲に熱中しています。

今年はベートーベン生誕250周年ですが、コロナ騒動で影が薄くなってしまいましたね。
しかし、コロナによる引き籠もりのため、音楽を聴く手段はレコードのみとなりました。この結果、雑誌だけはベートーベン生誕250周年、頑張っています。レコード芸術は既に2回もベートーベン特集をしています。さすがというか、あきれるというか。
一昨年は確かドビュッシー没後100年だったと思いますが、特集記事はあっただろうか。「この差はなんだ」と言いたくなります。
しかし、ファルジ・サイのピアノソナタ全集とか、久石譲の交響曲全集とか、250周年前に録音は完了していたCDが、便乗して、廉価版で登場するのは大歓迎です。どちらも、全く新しいスタイルで、「ロマン・ロランよ、さようなら」という画期的な演奏です。お勧めです。
廉価版につられて購入。我ながら節操は無いなぁとは思いますが、こればかりは仕方がないです(^^;;;。

いきなり脱線ばかりですが(^^;;;、続けます。
レコード芸術の2回のベートーベン特集で「ディアベリ変奏曲」に関する記述はたったの二行でした。
ピアノ曲の紹介の中で、最後の3つのソナタに触れた後、「こうした試みは最終的にソナタの枠内で収まらなくなり、巨大な変奏曲を生み出すこととなる。それが『ハンマークラヴィーア』ソナタより長大な『ディアベリ変奏曲』だった。」と紹介しています。
記述内容は正しいのだけど、これじゃ、この曲の良さはさっぱり分からんですね。まあ救いはその次のページのCDの紹介で二枚、シュタイアーとシフの演奏が紹介されていること。どちらもユニークなスタイルのCDのようです。聴いてみる値打ちはありそうです。

それで、思いついたのですが、この曲の不幸は、単なる名演奏ではなく、曲の良さを認識させる革新的な演奏がないことではないですかね。ゴールドベルク変奏曲にはグールドの1954年の革新的な演奏があり、今まで誰も気が付かなかったバッハの曲の素晴らしさを全世界のクラッシック愛好家に分からせてくれました。ランドフスカの古風な演奏では破れなかった壁を叩き割ったわけです。
しかし、ディアベリ変奏曲にはそのような演奏がまだありません。例えば、YouTubeでアファナシエフのこの曲の演奏が聴けます。

お聴きになればお分かりのように、この演奏はアファナシエフだけのことはあって、曲の性格を適切にとらえた素晴らしい演奏です。しかし、残念ながら、グールドのゴールドベルクのような既存のベートーヴェンの解釈をひっくり返す革新性はないのですよね。

そういえば、グールドはレコーディング開始初期にベートーベンの最後の3つのソナタを録音しています。なんで、ディアベリ変奏曲でなかったのだろうか。勉強不足でこの曲を知らなかったのかしら(^^;;;。
そういうことは無いだろうから、彼はこの曲を取り上げる気にならなかったのでしょう。確かに、この曲の面白さはシューベルトの晩年の世界に近いから、グールドは共感出来なかったのでしょう。ウーム、残念。

あとはポリーニが若いころのテクニックでこの曲を演奏していれば、革新的演奏になったかもしれません。ショパンの練習曲みたいに。僕はショパンのレコードは一枚も持っていなかったのですが、あの練習曲のLPだけは例外。ショパンがブーレーズみたいに聴こえましたから(^^;;;。

と、もっともらしく書いて来ましたが、白状すると、僕はこの曲をコロナ来襲前は殆ど聴いたことがありませんでした(^^;;;。「変奏曲のくせになんでこんな長いの」という記憶だけでした。それでは、何故、突然、この曲はベートーベン最大の傑作と考えるようになったか。表記のタイトルの本が原因です。


コロナ下、毎日家に閉じ籠もっていてるは健康によくないと思い、町に出ました。しかし空いている店がありません。行きつけの本屋も休業。しょうが無いので、近くの蔦屋に入る。音楽書の棚を見たらこの本を発見。
「へえー。ビュトールのディアベリ。ビュトールって音楽の本も書いていたの。知らなかったなぁ」と思い、パラパラとページをめくってみました。
楽譜だらけの本でしたね。面白そうです。「提案」というタイトルの最初の章はいきなり変奏曲の主題の楽譜ではじまります。こんな感じです。



そして次のページに文章がこういう具合に続きます。

1921年、ウィーン在住の楽譜出版業者アントン・ディアベリが提案した主題とは、このようなものでありました。相手はベートーヴェンだけではなく、知り合いの作曲家50人ほど。なかにはシューベルト、ツェルニー、フンメル、まだ10歳の少年だったフランツ・リストなどがふくまれていました。本来は宣伝のための企画ですが、ついでに当時のピアノの世界がひと目でわかる総展望をつくってみようという意図もありました。ごぞんじのように、はじめベートーヴェンはすげなく申し出を断りました。とりわけ彼が馬鹿にしたのはロザリアと呼ばれる4つの8分音符のモチーフです。このモチーフは、そっくり同じ形のまま異なる高さてくり返され、第一部の前半の二つのフレーズをしめくくります。まるで靴の修理屋がパッチをあてたようだ、と彼は評しました。ところが数カ月後彼はディアベリに手紙を書いて、ひとつではなく6つか7つ変奏曲をつけたいが、お許し願えるか、とたずねます。ディアベリの方は、二つ返事で承諾します。そして1823年、彼が仕上げて渡したのはーーディアベリは感激するよりむしろ、唖然としたにちがいありませんーー33の変奏曲。これが第1巻としてまず売り出され、競合する他の作曲家たちは、ひとからげで第2巻におさめられることになりました。
彼がまずやったのは、出版者の主題曲を、さながら王侯から賜った主題曲のごとくに翻案してみせることでした。これがあの荘重な行進曲、ひとつのメロディをひたすら忠実にささえてゆく和音で強調しただけの第1変奏です。この威風堂々たる曲に、モーツアルトの交響曲にちなんでジュピターという名をあたえることにいしましょう。

そしてまた第1変奏の冒頭部分の楽譜の引用が続きます。



冒頭だけでは不満でしょうから、第1変奏曲全体のスコアを引用します。



いかがですか。素晴らしい開始の仕方でしょ。まるでグールド1954年録音の冒頭のアリアとそれに続く第一変奏の演奏のようです。あの極端な対比と同じ展開がこの部分にありますね。そして、変奏主題の簡潔かつ精密な分析。曲の成り立ちをこれほど見事に説明した解説には初めてお目にかかりました。

この冒頭部分を読んでビックリ。
そして、お値段をみたら、2.5K円也。蔦屋だから半値ですね。元の値段は5K円でした。「安いのか高いのかよく分からないが、ともかく、それだけの値打ちがあることは確実」と考え、本を持ち、フラフラとレジへ向かう。getしちゃいました。

本書はディアベリ変奏曲の演奏会で曲と曲の間に挟まれて行われた講演内容(16の断章からなる発言)、講演内容を再構成するために後から付け加えられた注解、発言と注解を結びつけるタイトルと謎めいた詩のような断片から構成されています。曲の順に配置されているわけではないので、一部を読んでは全曲を聴く、またちょっと先まで読んでは全曲を聴くという感じで、何度も変奏曲全体を聴きました。そして、読み進む度に全曲を聴くと、新しい発見があり、感心するということになる。

グールドの1954年の革新的なゴールドベルク演奏がバッハの新しい世界を認識させてくれたように、この本はディアベリ変奏曲を語りながら、ベートーベンの革新性を改めて認識させてくれます。こういう本は初めてですね。素晴らしいと思いました。

(Review)   2020/08/04

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コロナ版direttaを聴く(2)


このテーマは前回で終わらせるつもりだったのですが、続けます。
続ける理由は①正式版をgetしたこと、②興味深い事実を見つけたこと、の二つです。まず、順番は逆になりますが、まず、②興味深い事実について。

最初に一枚、スナップショットをご覧いただきましょう。

TuneBrowser+HD



これは前回の


diretta Host(i9-9900t ) -> ether(udp) <--> diretta target(j-5005) -usb-> DDC(x-spdof2) ->dac(キツネ) 

という構成の全CPU負荷を表示したスナップショットです。前回は全部のCPUの合計のスナップショットだったので、説明が舌足らずでした。

結果は前回と同じですが、ASIOドライバ(diretta.sync)が一台分のコアをCPU負荷100%完全に占有していることがご覧頂けるかと思います。cpu1番でずっと動き続け、その後、一時的にOSのコントロールでCPU2番に移っていますが、更に再びcpu1番に戻るという形で、diretta.syncがcpuを独占しています。
このドライバがcpuを独占し続けるという処理方法は、ドジなプログラマーが犯す誤り(プログラムミス=バグ)で、禁じ手です。こんなことをしたとバレたら、「オマエ、バグだぞ」と指摘され、厳しく糾弾される行為です。

ところが、direttaはこのバグ紛いの処理を意図的に行っているようです。
何でそんなことをするか。スナップショットの右側に表示されたネットワーク負荷を均一化させるためのようです。これだけ綺麗な水平のグラフの負荷を維持するには、Windows環境のタイマーでは精度が出せない。仕方がないのでループさせて小まめに時間をチェック。等間隔でデータを送り続けるようにするということらしいです。

以上はホスト側のDACに音楽データを置いた場合です。次に音楽データをNASからアクセスする場合。

TuneBrowser+NAS



ご覧のように周期的にNASからの転送による負荷の変動が発生します。グラフでは随分大きくみえますが、10MBPS以下のグラフですから実際は音に大きく影響するような値では無いです。
それでは、direttaを使わないとどうなるか。試してみました。音楽データがHDが上段、NASが下段です。

diretta無しTuneBrowser+HD



diretta無しTuneBrowser+NAS



ご覧の通り、ネットワーク負荷のデコボコは悲惨な状態となります。

以上はWindowsの再生ソフトはTuneBrowserを使いました。
次に同じ環境で他のソフトだとどうなるか見てみましょう。

まずfoobar2000。音楽データがHDが上段、NASが下段です。
ここから、左右が逆となり、右側はネットワークの詳細画面に変わります。

foobar2000+HD




foobar2000+NAS



上のNAS接続時のCPU負荷グラフは面白いですね。京の五条の橋の欄干を、弁慶の薙刀をかわして、飛び跳ねる牛若丸という感じです。CPU1、2、3を右に左に移っています。NASに関連する処理はCPU0専門なようです。多分この処理の何かがトリガーになって牛若丸が飛び跳ねるということになるのでしょう。

ついでに、これもdiretta無しだとどうか。

diretta無しfoobar2000+HD



diretta無しfoobar2000+NAS



以上はasio対応しているフリーの再生ソフトを使いました。次に有償のソフトだとどうなるか。 まず、HQPlayerを試してみます。

HQPlayer+HD



HQPlayer+NAS



diretta無しHQPlayer+HD



diretta無しHQPlayer+NAS



PCM384Kに変換して再生しています。CPU負荷が案外低かったのは意外でした。フィルターの設定が軽く抑えられているからかもしれません。これだとfoobarと差はないですね。
次にJRiver。

JRiver+HD



JRiver+NAS



diretta無しJRiver+HD



diretta無しJRiver+NAS



これは非常に興味深い結果です。
最初のdiretta有りでHDから音楽データを読み込む時のCPU負荷パターンは牛若丸型でFoobar2000の音楽データがNASに置いている時といっしょです。ところが同じ条件になるNASの方をみるとこれがとても変わったCPU負荷分配となっています。
つまりCPU負荷100%のコアはCPU2だけです。そして、他のCPU0,1,3,4はそれなりの負荷で動いています。実はHQPlayerのNAS音源の場合も同じようなパターンなのですが、この場合は他のCPUの負荷は低いです。何が理由なのですかね。謎です。

さて、最後に取って置きの真打ちの謎。JPLAYのグラフをご覧いただきましょう。dirreta無しは意味が無いので省略します。「意味が無い」の意味はグラフを見れば分かります。

JPLAY+HD



JPLAY+NAS



いかがですか。「アッとおどろく為五郎」でしょ(古いですね^^;;;)。
解読は次回のお楽しみ。

(PC_Audio)   2020/07/29

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コロナ版direttaを聴く


これ(コロナ版diretta)を試してみた人は何人位いるのだろうか。
ダウンロードに関する情報はここにあります(tairyuさん、情報ありがとうございました)。他にもPhileWeb(コミュニティ)ネットオーディオにも「コロナ版が無料公開されているよ」という書き込みはあります。
6月末まで無料で使えるコロナ版の存在を知って人は多いと思うのですが、試したというサイトの記事はありませんね。dirretaユーザの使用報告はあっちこっちにあるのに、何故、コロナ版を試したよの報告はないのだろうか。ヤッパリ、皆、コロナは怖いということなのですかね(^^;;;。そんな訳ないか。
という訳で、臍曲がり、人のやらないことをやるのは大好きですので、やってみました。

実はtairyuさんの書き込みを読んだ直後に、コロナ版direttaをダウンロードし、中味を見たりしていたのですが、音を聴くには、diretta.syncをWindows環境にインストールする必要があり、面倒なので、放っておいたのですよね。ところが、最近、別件でネット仲間とメールのやり取りをしていたら、direttaに関して

「音を聞いていないので論評をすべきではないと思いますが、こんなので音が良くなるのか不思議です。単に、diretta targetの音がwindows のプレーヤーより音がいいというだけのような気がします。
ただし、転送プロトコルにudpを使ったのは目からウロコです。udp自体にフロー制御、エラー訂正はないので、アプリケーション側で行わなければならないのですが、よく考えてみれば、エラー訂正がないのはusbの非同期モードも同じです。イーサーネット自体エラーはほとんどないので、オーバーラン、アンダーランさえ起こさなければ垂れ流しでもusbと同じレベルの伝送はできそうです。」

というメールをdiretta評を頂戴して、ビックリ。これは聴いて見なくっちゃと考えました。

試すにはインテルハードが2台必要です。わかりやすいので、PhileWebの紹介記事の図を引用します。設定方法なども詳しく解説されていますので、参考になるでしょう。



僕はJPLAYのデュアル構成用に使っていた、i7-8700T(Diretta Host)とJ-5005(Diretta target PC)を使いました。
インストールは簡単。一発で動きました。簡単ですね。これぞ「サルでも出来る」というレベル。

direttaイメージの書き込みはetcherを使いました。イメージのサイズがコンパクトなためか、あっという間に完了しますね。GentooPlayerなどだと数分かかるのですが、10秒もかからず終わります。

USBメモリをJ-5005に差し込み、ディスプレイを繫いで立ち上げたら、「BuildRootうんぬん」と表示されます。その後linux関連の立ち上げメッセージが流れる。direttaの構成はこのサイトの報告書の図(多分、ご本家からにあるものだと思います)が良く出来ているので、引用します。



上図は概念的な構成で、現在のシステムは多少機能の配置が異なるようです。中を覗いての分析は後述します。

dirretaの本体であるdiretta.sinKはBuildRootを使って構成されたlinuxシステムであるということのようです。最後にログインの問い合わせ画面が表示されますが、ユーザ名、パスワードが不明なので、入ることは出来ません。



せめて構成でも覗くかと考え(やり方はここを参照)、イメージをバラしてみました。

yo@mintc:~$ sudo fdisk -l
・・・・・
ディスク /dev/sdc: 14.6 GiB, 15712911360 バイト, 30689280 セクタ
単位: セクタ (1 * 512 = 512 バイト)
セクタサイズ (論理 / 物理): 512 バイト / 512 バイト
I/O サイズ (最小 / 推奨): 512 バイト / 512 バイト
ディスクラベルのタイプ: gpt
ディスク識別子: 26BE9975-BA8F-A240-ACA3-6E41B3905892

デバイス   開始位置 最後から セクタ サイズ タイプ
/dev/sdc1      2048    73727  71680    35M EFI システム
yo@mintc:~$ mkdir tmp
yo@mintc:~$ sudo mount /dev/sdc1 ./tmp
yo@mintc:~$ cp ./tmp/boot/initrd.img ./
yo@mintc:~$ mv initrd.img initrd.gz
yo@mintc:~$ gunzip initrd.gz
yo@mintc:~$ mkdir tmp2
yo@mintc:~$ cd tmp2/
yo@mintc:~/tmp2$ cpio -id < ../initrd
71762 ブロック
yo@mintc:~/tmp2$ ls
bin   dev  init  lib64    lost+found  mnt  proc  run   share  tmp  var
boot  etc  lib   linuxrc  media       opt  root  sbin  sys    usr  versio
yo@mintc:~/tmp2$

「なんだ。普通のBuildRootで構成したシステムなのね」という感想。
試しに、etc、bin、sbin、lib、usr、optなど見てみる。ごく当たり前のコンパクトなlinuxシステムです。しかし、肝心のdiretta.sinkとdiretta.syncが見当たらない。「ウーム。謎のシステムだなぁ」。

/rootを覗いてみました。ビックリしましたね。

yo@mintc:~/tmp2$ ls -l ./root/
合計 688
-rw-r--r-- 1 yo yo  24736  5月 24 12:52 alsa_bridge.ko
-rwxrwxr-x 1 yo yo 131328  5月 24 12:52 certified_target
-rwxrwxrwx 1 yo yo   1042  5月 24 12:52 diretta.sh
drwxr-xr-x 2 yo yo   4096  5月 24 12:52 driver
-rwxr-xr-x 1 yo yo  55760  5月 24 12:52 interfacelist
-rwxrwxrwx 1 yo yo    146  5月 24 12:52 netup.sh
-rwxrwxrwx 1 yo yo    200  5月 24 12:52 sink.sh
-rwxrwxr-x 1 yo yo 145296  5月 24 12:52 sinkAlsa
-rwxr-xr-x 1 yo yo 101888  5月 24 12:52 sinkNull
-rwxrwxrwx 1 yo yo    181  5月 24 12:52 sync.sh
-rwxrwxrwx 1 yo yo 205104  5月 24 12:52 syncAlsa
-rwxrwxrwx 1 yo yo     64  5月 24 12:52 target.sh
yo@mintc:~/tmp2$ ls -l ./root/driver/
合計 612
-rw-r--r-- 1 yo yo  75456  5月 24 12:52 asix.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo  41136  5月 24 12:52 ax88179_178a.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo  14792  5月 24 12:52 fixed_phy.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo  87640  5月 24 12:52 lan78xx.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo  13040  5月 24 12:52 microchip.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo  22480  5月 24 12:52 msdos.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo 113264  5月 24 12:52 r8152.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo  29824  5月 24 12:52 rtl8150.ko
-rw-r--r-- 1 yo yo 143704  5月 24 12:52 usb-storage.ko
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rootにシステムを置いているのですね。「何と大胆」と驚きあきれました。
折角だから、diretta.sh、netup.sh、sink.sh、sync.shなども拝見。なかなか面白かったです。
要するにこれはsinkAlsaとsyncAlsaという二つのプログラムと専用のドライバによって構成されたlinuxプレーヤシテテムですね。そういう意味では、例えばlightMPDやSMPDと同じということになります。


さて、試聴にかかりました。
Windows側のアプリはTurboBrowserを使いました。Asioドライバに対応出来るアプリなら、何でも使えるはずです。設定画面でdiretta Asioドライバとしてを選んだだけで、問題なく動きました。
DACですが、linux Alsa USB2.0対応機能で認識出来るデバイスであれば、何でも使えるはずです。逆に、linuxで使えないデバイス(例えば、Korgのなど)はWindowsで接続出来ても、direttaでは使えないことになります。今回はキツネDACで聴きました。

それで、肝心の音ですが、素晴らしいと思いました。「なるほど。やっぱり、コンパクトなlinuxシステムの音だなぁ。素晴らしい。」という感想です。
上流側はWindows側にASIOドパイバを組み込み、処理を平準化させる対策はとっていますが、それ以降に関していえば、結局、diretta本体部分はbuildrootによって構成されたコンパクトなlinuxシステムです。DACとはALSAを使い、普通にUSB接続されいる訳ですから、linuxの高音質プレーヤと同等レベルの音がして当たり前です。例えば、同じようにbuildrootで作成されているlightMPDと同じ傾向の音がするのは当然でしょう。

上流側の対策は十分に効いていると思います。
これが、diretta有りで再生中のネットワーク負荷とCPU負荷です。TurboBrowserの再生する音楽ファイルは内蔵ディスクに置いてあります。つまり、TurboBrowserは音楽サーバーとして機能するということになります。



これが、diretta無しで再生中のネットワーク負荷とCPU負荷です。ネットワークの使い方をdiretta有りに合せるため、音楽ファイルを内蔵ディスクでなく、linux samba(atomマシン)で動くNASサーバーに置いてあります。



最初のグラフはTurboBrowserのドライバとして ASIO direttaを選んだ場合、二番目のグラフはキツネDACのASIOドライバ(HoloAudio ASIO driver)を選んだ場合となります。

一目瞭然ですね。ネットワーク負荷の平準化度、CPU負荷の差について、決定的に違うことがご覧いただけるかと思います。ネットワークの下段は動作中のプロセス数ですので、大した差は発生しません。

このdirettaのネットワーク負荷の平準化とCPU負荷のアップについてコメントします。
MPDの有名なチューニング項目でaudio_buffer_sizeとbuffer_before_play(audio_buffer_sizeのうち何%使うかを0~100%の範囲で設定、このパラメータはMPD0.22最新版では無くなっています)があります。高音質化させるにはaudio_buffer_sizeを出来るだけ小さくして、buffer_before_playを出来るだけ大きい値にすると良いといわれています。バッファを小さくし、全部使い切るまで次のデータを読み出しにいかないということは、MPDに再生データをギリギリのタイミングで読み出しさせることにより、負荷の平準化を図ろうという意味になります。このバッファによる調整はかなり再生音に影響します。やっていることはdirettaの平準化チューニングといっしょです。
また、同じような平準化をJPLAYは7.0のリリースで行っています。JPLAYについては僕のサイトのこの記事この記事で紹介したことがあります。MPDのチューニングについては、PhileWebコミュニティのこのサイトに実際に試した記事があります。

direttaのネットワーク負荷の平準化のレベルは上図の通りで、素晴らしい水準ですね。これはそれなり高音質化には効果を上げているのではないかと思います。
ただし、この水準を達成するためにCPUに負荷をかけてコントロールしているようです。

以前、JPLAYの作者マーシンがこの件について「What I can say is that Diretta is a totally different concept from JPLAY, because Diretta is very CPU intensive whereas JPLAY has extremely low CPU utilization.」と書いていました。彼の書いた通りであることが実証されたグラフだと思います。
また、この件では最初にふれた僕のネット仲間が「direttaの説明にはプレヤーの動作するPCの処理が平坦化されるので音が良くなるとの説明がされていますが、 それならアイドルタスクに無限にループするプログラムを登録しておいて常にcpu100%にしておいてもよさそうです。負荷が低いほど音がいいという主張であれば話はべつですが。」と書いていました。凄い洞察力ですね。

二人意見は一致しています。このCPUを使って、負荷の平準化を実現するというコンセプトは面白いです。


diretta有りとdiretta無しの二つを聴き比べたました。圧倒的な差です。断然、diretta有りの方がいいです。TurboBrowserはWindowsで動くプレーヤソフトとしては単独でもそれなりに高音質だとは思いますが、一度、diretta有りの音を聴いたら、もとには戻れないでしょう。音のリアルさ、解像度、音空間の感じ、音の切れ目での静謐感など全く違います。これは勝負にならないというレベルですね。

それでは、linuxのシステム同士で比較するとどうか。lightMPDは同じbuildrootで構成されたコンパクトなシステムでインテルアーキテクチャで動きます。これで比較試聴しました。direttaについてはi7-8700T(Diretta Host)とJ-5005(Diretta target PC)、lightMPDはi9-9900という構成です。
キャラクターは異なりますが、同じレベルの音質ではないかと思いました。direttaは静謐感の高い、上品な音、lightMPDは安定感のある落ち着いた音という違いはあるが、どちらも高水準の再生音です。まあ、これは

diretta
~~~~~
Diretta Host---> ether(udp) <-----> diretta target ---usb---> DDC--->dac

lightMPD
~~~~~
dlnaサーバ   ---> ether(udp) <-----> pc(lightMPD)  ---usb---> DDC--->dac

と見做せば、同じことですから、当然なのかもしれません。

いずれにしても、direttaは「Linuxで動く高音質な音楽再生プレーヤが新たに登場した」ということですね。絶賛する方々の殆どが Windowsユーザーというのも納得です。彼らは初めてLinuxの音楽再生環境が高音質であることを体験できて、狂喜乱舞、感涙し、喜びまくったということでしょう(^^;;;。
Linuxユーザーから見れば、「こんなの当たり前じゃないの」ということになるので、たいして話題にならない。従って、コロナ版direttaにコメントするサイトも一つも現れないということになるのでしょう。

最後に件のネット仲間のコメントですが、

direttaの開発者と思われる人のfb をみると
  ether <-------> diretta target ---i2s----> dac
という構成の製品も企画しているようでうが、本命はこちらなのでしょうね。
これなら、etherとusbの転送上の違いがあらわれるかもしてません。
個人的には、大差ないのではと感じています。usbがそれほど悪いとは思っていませんので。

ということです。しかし、これもlinux側にはSMPDという強力なライバルが既に頑張っているのですよね。
SMPDは会員制での公開ですが、僕のところに連絡していただければ、会員登録を申請できます。ご希望の方は遠慮なくどうぞ。

(PC_Audio)   2020/05/30

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